top of page

猫への愛がデータを歪める?

遺伝子を変化させ人の役に立つようになったウマやイヌに対し、ネコは野生のまま実用性も持たずに人の生活に入り込みました。なぜネコとのコミュニケーションは成立するのでしょうか? 考古学的な遺跡の事例や遺伝子の話を交えながら、事実と推論を区別することの重要性について、ネコという曖昧な存在から考えます。




役に立たないのに愛される。家畜になりきらない猫


動物は古くから人の生活に欠かせない存在とされています。先日のサイエンスカフェでも、ウマと人との関わりについて興味深い話を聞くことができました。


ウマは、荷役や乗馬、食肉など、人の役に立つように家畜化されてきました。その過程で遺伝子も変化しており、例えばウマの気質や行動に関わるZFPM1という、攻撃性を弱める効果を持つ遺伝子が選抜されてきたことがわかっています。イヌについても同様で、人懐っこさの遺伝的基盤となる、GTF2IやGTF2IRD1といった社会行動に関与する遺伝子の変異が明らかになりつつあります。


一方、ネコはペットとして可愛がられているものの、ウマやイヌのように実用的に役立つという点ではあまり貢献していません。イエネコの遺伝子はその祖先であるリビアヤマネコなどの野生種とほぼ変わっていないのです。野生ネコのキジトラ模様から渦巻き模様が現れ、遺伝的に野生種と区別がつくようになったのも、西暦1300年頃以降と考えられています。

遺伝子も野生のままで、実用的な役割も持たないネコは家畜化されたとは言い難い存在です。それでもネコがそばにいる理由は、知りたいという思いや人の感情を動かす何かがあるからだと考えられます。そして、人が持つその感情が、科学的な目を曇らせる原因にもなり得るのです。


 

その猫は本当に愛されていたの? 遺跡が語る事実、語らない心


考古学や進化学のような過去を探る分野において、心や行動そのものは化石に残らないため、物理的な証拠から見えない家畜化のプロセスを再構築するには推論という機能を使わざるを得ません。科学データそのものは、数値や断片的な事実です。そこから推論を重ねることで、欠けている情報を補う必要があります。


例えば、中国の泉護村遺跡(約5300年前)から出土したネコの骨の分析例があります。炭素と窒素の同位体分析の結果、ネコたちは野生動物ではなく、人が栽培したキビを食べるネズミや、人が与えた残飯を食べていたことが示されました。この骨は現在のイエネコの祖先のリビアヤマネコとは異なる系統のものでしたが、ネコが自ら人を選んで共生を始めた、あるいは人が餌付けをしたという進化のシナリオ、つまり推論が生まれます。

しかし、データが示しているのはあくまで、同じ場所にいたこと、そして人の食料サイクルの一部を食べていたことという物理的事実のみです。そこから人がネコを許容していたとか、仲良くしていたと判断するのは推論に過ぎません。人はネコを害獣として嫌っていたが、ネコが勝手に住み着いただけという可能性もゼロではありません。


また、地中海のキプロス島にあるシロウロカンボス遺跡(約9500年前)では、人とネコが向かい合うように同じ墓に埋葬されていました。当時、島にネコはいなかったため、人が船で連れてきたことは確実です。このネコは遺伝的には野生のリビアヤマネコですが、丁重な埋葬の様子から、密接なコミュニケーションや情動的な絆があったと推論されています。

しかしこれも、一緒に埋葬されたことは事実ですが、愛されていた、つまりペットだったというのは推論です。極端な仮説を立てれば、宗教的な生贄として道具扱いされた可能性や、死後の世界の食料として埋められた可能性も否定できません。心情そのものがデータとして残っていないので、推論するしかありません。

 


可愛らしさの先にある真実。都合の良いデータ解釈を超えて


事実であるデータから、解釈である推論を行うことは研究において不可欠といっても良いでしょう。科学はデータだけで成り立っているわけではありません。推論は、次の研究テーマを生みだします。未来を予測し、研究を進めることで科学は前進するからです。しかし、そこには細心の注意が必要です。


特に、ウマやイヌのように役割が明確な動物に比べ、ネコは曖昧な立ち位置にある存在です。そのため、人の解釈が入り込む余地が大きく、推論が行き過ぎると事実は歪められてしまうこともあり得ます。

例えば、ネコは見た目が赤ちゃんのようで守りたくなるのに、性格は自立していて媚びず、そばにいて癒やしてくれる存在です。ネコ好きの人はネコも人が好きであってほしいという願望を持ちがちです。その結果、自分に都合の良いデータばかりを重視し、反証データを無視する確証バイアスに陥る危険性があります。また、ネコに限らず動物に人の感情や論理を当てはめる、いわゆる擬人化をしてしまうことがよくあります。そうすることで、本来の生態を見誤ることもあるのです。

 

これまで多くの研究者の方々を取材して、事実と推論を明確に分けることを実践されている姿を見てきました。推論は科学を自分ごととして捉えるために、研究者ではない私たちにも必要なプロセスですが、事実は事実、推論は推論と意識することを大切にしたいと思っています。



bottom of page