「クセ」は脳の知恵?
- Mineyo Iwase
- 3 日前
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なぜ一度勝つと次も勝ちやすく、負けるとまた負けてしまうのでしょうか。
実は、「勝者敗者効果」と呼ばれるこの現象は、魚から人間にまで共通して見られる行動パターンです。最近、そのメカニズムを明らかにした論文が発表されました。自分のクセを振り返る良い機会になったので、紹介します。

「勝ったあと」と「負けたあと」に起きる不思議な変化
「勝者敗者効果」とは、直近の勝敗経験が次の勝負の成績に大きく影響を及ぼす現象です。勝利した経験を持つ個体は次に勝ちやすく(勝者効果)、負けた経験を持つ個体は次に負けやすくなります(敗者効果)。この効果は、魚類(トゲウオ)、爬虫類(アメリカマムシ)、哺乳類、鳥類、甲殻類、昆虫など、幅広い動物種で確認されています。特筆すべきは、実力(体格やサイズ)にかかわらず、直前の勝敗がその後の勝率を劇的に変える点です。
また、勝敗がその生物の社会的階層(ヒエラルキー)に影響を及ぼすことも知られています。負け続けるということは、単に一時的な劣勢を意味するだけでなく、群れの中での立場や行動パターンをも変化させる可能性があります。マウス同士を対峙させる実験でも、勝敗の結果によってマウスが所属するケージ内での社会的順位が変化することが確認されています。
人間においても、テニスのようなスポーツのほか、肉体を駆使しない分野、1対1のビデオゲームの対戦試合や、相手との文章の理解度が競わせる読解力課題を用いた実験でも「勝者敗者効果」が確認されています。実験環境下で実力を等しくなるように調整した場合でも効果が現れることから、勝負の結果そのものが競争力に関係していることが示されています。
しかし、「勝者敗者効果」が生じる脳の仕組みについては、ほとんど明らかにされていませんでした。
「負けグセ」をつくる脳のスイッチ
沖縄科学技術大学院大学(OIST)の研究チームは、マウスを用いた細いチューブ内で二匹のマウスが押し合い、どちらが後退するかで優位性を測定する「優位性チューブテスト」を通じて、この「敗者効果」(負けグセ)を制御する特定の脳細胞を特定しました。研究チームは、意思決定の柔軟さを調節する役割があるとされる大脳基底核の一部である背内側線条体に着目しました。この背内側線条体にあるコリン作動性介在ニューロンを除去すると「敗者効果」が消失したのです。一方で、「勝者効果」には変化が見られませんでした。
このことから、研究チームは「勝者効果」と「敗者効果」には異なる脳回路が関与していると結論づけました。「勝者効果」が「報酬に基づく学習」のプロセスである可能性が高いのに対し、敗者効果は「状況に応じた意思決定に関わるプロセス」であることが示されたとしています。言い換えれば、「敗北経験は危険回避的判断を促す」ものであると考えられます。
この研究から、私たち人間の脳にも同様の仕組みが存在するとすれば、行動や心理の一部を新たに解釈できるかもしれません。「負けグセ」は、「単なる心の弱さ」ではなく、危険を避け次のチャンスに備える「安全運転モード」への切り替え機構なのかもしれません。あるいは、慎重さが群れ内の衝突を回避し、安定した社会的階層構造を維持するために機能している可能性もあります。いずれにせよ、「敗者効果」は生存戦略の一環として進化の中で獲得された重要な“クセ”と考えられます。
長い歴史を持つ「アセチルコリン」
「敗者効果」にコリン作動性ニューロンが関与するという発見は、その神経伝達物質であるアセチルコリンが、脳内の局所回路で過去の経験(敗北)に基づく行動の調整、すなわち慎重な意思決定という高度な機能を支えていることを示しています。
アセチルコリンは、真正細菌、始原菌、真核生物を含むほぼすべての生物に存在しており、およそ39億年前、生命誕生の初期段階から細胞間の情報伝達物質として働いていたと考えられています。動く能力を持つ多細胞生物の誕生とともに神経細胞が生まれたとき、アセチルコリンは神経伝達物質の一つとして利用されるようになりました。その後、経験をもとに行動を変えるという「脳の知恵」とも呼べるメカニズムが形成されたのかもしれません。
今後、人間の認知、気分、行動を左右するメカニズムがさらに明らかになっていけば、これまで「クセ」と捉えられていた行動が、実は生物の「生き残り」に不可欠な仕組みであることが分かるかもしれません。
今回は、心理学、神経科学、進化学での知見の紹介でしたが、さまざまな分野を軽々と超えて「理解」に繋げていくことこそ、サイエンスコミュニケーションの大きな役割です。それはサイエンスコミュニケーションの強みであると同時に、誤解を招く危うさをもはらんでいます。その両面を意識しながら、「理解」をさらに深めていきたいと思います。
<参考サイト>